2008年12月16日火曜日

『荒野の決闘』 敗北の中の栄光


よくベストの映画10本を選ぶとすれば?と聞かれることがあるが、映画ファンなら誰しもそうだと思うが一番困り果てる質問でもある。
映画がこの世に出現して100年以上経過し、膨大に生まれた作品のなかでわずか10本を選ぶなんて出来る相談ではない。せめてジャンル別にしてもらったり、製作国別にしてもらったり、年代別にしてもらったり、と絞りこんでみたところであれも、これもと悩むことは言うまでもないことである。
評価すべき映画、好きな映画、泣ける映画、笑える映画、そんな側面から見たってなかなか選びきれない。

ただしそんな中で、好きな映画ということで言えば、この作品だけは入れておきたいという一本がジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演1946年公開の『荒野の決闘』(原題MY DARLING CLEMENTINE)である。
いわずとしれた保安官ワイアット・アープのOK牧場の決闘を描き、そのアメリカ民謡からのテーマ曲は日本では「雪山讃歌」と改められ誰しもが耳に親しんだものとして記憶されている。
日本公開は1947年。まだ焼け跡が残る街の映画館で溢れかえる観客が爪先立ちになりながら人の肩越しにスクリーンを息を詰めてみつめていたと、当時を知る人から聞いたことがある。その熱狂振りは主演のヘンリー・フォンダが1962年『西部開拓史』のPRで来日した際、歌舞伎役者たちと会った席でアープ役の話でもちきりだったとハワード・タイクマンによる伝記『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』中で述懐しているところからもこの映画の当時の人気のほどが伺える。

もちろん私自身は後追いでテレビ放映がこの映画との最初の出会いだったが故小山田宗徳の名吹き替えとともに感激しまくり、その後も何度も何度もテレビで、ビデオで、DVDになっても繰り返し観てそのつどラストの別れのシーンに感動し続けている。大学生の頃、当時市販されていた同人雑誌『西部劇通信』の追憶の<荒野の決闘>特集を買い求めたとき、巻末の編集部員募集告知で“無給でこきつかうがこの道で食べていけるくらいにはさせる”という条件だったが本気で‘就職’を考えたくらいだ。壮大なモニュメントバレーの景観、詩情溢れる開拓時代の空気が満ちるトゥームストンの情景、すいかずらの香とともに荒地に建てられた教会で無骨な男が踊るダンスシーン、手に汗握るガンファイト、そして言うまでもない“Ma'am I sure like that name,Clementine!”という忘れがたいラストの名せりふ、好きな女にこんな婉曲にしか思いを伝えられない男の純情。小山田吹き替えでは確か“実にいい名前だ、クレメンタイン!”と意訳していたが、ぐっと胸に迫る名訳ではないだろうか。そう、何度観てもどのシーンをとっても映画の醍醐味溢れる作品として、個人的にはベストの中からはずせない一本なのである。

名匠ジョン・フォードは『男の敵』(1935)『怒りの葡萄』(1940)『わが谷は緑なりき』(1941)『静かなる男』(1952)と映画史上不滅の生涯4度のアカデミー監督賞に輝いているが、『荒野の決闘』に関しては1946年度のアカデミー賞ではどの部門においてもノミネートすらされておらず、確かにその年はウィリアム・ワイラーの『我らの生涯の最良の年』が話題を独占してはいたが、興行収入は450万ドルを超える大ヒットとなったにもかかわらず作品の<評価>としてはまったく無視されてしまった。その意味では作品の出来いかんによらず観客からは支持され愛された映画といえるだろう。

現在では西部開拓史の中でOK牧場の決闘の逸話とワイアット・アープの存在は、相手役のドク・ホリデイの名とともにあまりにも有名だが、実はこの映画の公開まであまり一般に知られてはいなかったという。その意味でも『荒野の決闘』が映画史に与えた影響は計り知れないのである。そもそもは1930年にスチュアート・N・レイクという作家が『フロンティア・マーシャル』という実録ものでアープを取り上げたのがきっかけで、すでにジョージ・オブライエン、ランドルフ・スコットの主演で2度映画化されていたが、このフォードによる3度目のリメイクによってOK牧場の決闘は一気に万人の知るストーリーとなったのであった。以後、ジョン・スタージェスが『OK牧場の決闘』(1957)、『墓石と決闘』(1967)と2度にわたり映画化し、テレビドラマのシリーズも製作された。最近になってもカート・ラッセルや、ケヴィン・コスナーの主演で映画化されていわば西部劇の定番化していく。
実際、生前のアープ(1929年に81歳で死去)とジョン・フォードはサイレント時代に面識があり、撮影助手をしていたころ西部劇の撮影に見学に来たときに親しく話したという。そのとき聞いた実話によって『荒野の決闘』を作ったと、フォードはピーター・ボグダノビッチのインタビュー(『インタビュー ジョン・フォード全生涯全作品』九芸出版)に答えているが、フォードは史実を無視してドク・ホリデイを殺してしまったりしたが、むしろ決闘のディテールにその体験談を活かし息を吹き込んだ(実際の物語はスタージェス版に近い)。

そもそも『荒野の決闘』はフォックスと契約していたフォードが独立プロを作る前の最後の作品である。フォックスの社長ダリル・F・ザナックは最後の作品を確実に成功させたいという意向から何本かの脚本からこのリメイク企画を選んだのだが、既に自分の新しいプロダクションで製作する『逃亡者』の準備に入っていたこともあって当初フォードは乗り気ではなかったという。
とはいえ潤沢な制作費と『若き日のリンカーン』『怒りの葡萄』で気心が知れていたヘンリー・フォンダが戦争から戻り、エキストラにいたるまでの“一家”が集まってきたこともあってフォードも機嫌を直し製作は開始された。当時の撮影の開始に当たってのエピソードが前出の『西部劇通信』で田中英一氏によって紹介されている。
「スタジオに連中(一家)が集まってきた。何年ぶりかの再会であったが照れ屋のフォードはろくろくあいさつもせず、昨日も会ったようにジロッと見渡したが、みるみる機嫌が悪くなってきた。
 “俺が久しぶりに西部劇をやらかそうとしているのに…サムはどうした?フランクもいない、ジャックは相変わらず酔っ払って寝ているのか?” 
 配役係は答えた
 “サムはタラワで戦死しました。フランクはノルマンディで片足なくしてまだ陸軍病院です。ジャックは痛風で動けません。かみさんが代わりに息子を寄越しました―あの右から3番目のイキのいい奴ジャックにそっくりでしょう。あれが息子です”
 フォードはしばし空を見上げてから独りつぶやいた。
 “そうだった…戦争があったんだっけ…、それではと、残った連中がまだ馬に乗れるか、ジャックのところの若僧がロバくらいはまたげるかテストしてみなくちゃね”
 連中がいっせいに砂塵を捲いて走り去ると、フォードはチェアに腰を沈めてまた繰り返した。
 “そうだったな、長い長い戦争があったんだものなァ”」

『荒野の決闘』がなぜ人の心をうつのか。それは映画の全編を貫く喪失感にある。アープは兄弟を失い、老クラントンは息子を失う。ドク・ホリディは自分を慕う酒場娘を救えず医師の誇りを打ち砕かれ自らも病によって人生を失い、クレメンタインは恋人を失う。しかしながら生き残ったものたちは傷つきながらも明日に向かって生きるしかない。そこに敗北の中の栄光を見ることができる。自ら記録映画撮影のためカメラとともに戦地に赴いたフォードはそれを描いて見せたのだとボグダノビッチもインタビューで規定して見せた。上記のエピソードは真偽のほどはともかく、そんな敗者の栄光に思いを寄せるフォードの心情をあらわしたものとして心にしみる。
戦争で多くのものを失ったのは何もアメリカ人だけではない。戦った側の焼け跡で明日への希望を失った当時の日本人たちが、この映画に敗北の中にさえある栄光を感じ取り自らを重ねていたであろう事も想像に難くない。

ただ作品が出来るまでにはすんなりとは行かず幾多の紆余曲折があったようだ。フォードは老クラントン役のウォルター・ブレナンとはウマが合わず激しい口論をして“もう二度と仕事をしない”と宣言され(事実そうなった)、また当初望んでいた戦争の英雄でもあるタイロン・パワーに代わってドク・ホリデイ役に起用されたビクター・マチュアに対してつらくあたり、“メキシコ野郎”“レバーみたいな唇しやがって”などと執拗にののしった(実際はマチュアも戦争に行っていたのだが)。マチュアはそのせいで神経症にまでなりかけたが、かえってそれが不安定な役柄にプラスに作用し、また彼自身もより役に打ち込んだ。そのため結果的にはその後においても大根役者と酷評された彼の生涯の中で唯一無二の代表作となった。そして仕上がった初号試写では脚本の説明部分を大胆にカットし、登場人物の性格描写に力点が置かれていた演出にザナックは満足せず、自らフォードの撮った尺を30分以上もカットし、取り直しも入れて(ラストの頬へのキスシーンは有名)なんとか完成にまで持っていった。公開後世界的に大ヒットしたのは、興行をにらんだザナックの再編集の功であったとも言えるが、だからといってフォードが描ききった詩情溢れるフロンティアの世界の価値が損なわれたものではないことは言うまでもない。
ヘンリー・フォンダは好きな映画を問われると自己の名声を高めた『怒りの葡萄』や『十二人の怒れる男』とともに『荒野の決闘』もあげたが、人からアープ役を褒められると控えめに“あれはフォードの手柄だ”と付け加えたという。

そのフォンダも後に『ミスタア・ロバーツ』(1955)の演出を巡り殴り合いとなるほど対立した後、<一家>と決別することになる。『荒野の決闘』がそうであったようにフォンダは名優といわれながらも晩年の『黄昏』(1981)までアカデミー賞とはずっと無縁だった。彼自身もワイアット・アープの敗北の中の栄光を生き続けたのだろう。

●荒野の決闘
(1946年20世紀フォックス作品)
監督/ジョン・フォード
製作/サミュエル・G・エンジェル
原案/サム・ヘルマン、スチュアート・N・レイク
脚本/サミュエル・G・エンジェル、ウィンストン・ミラー
撮影/ジョー・マクドナルド
音楽/アルフレッド・ニューマン
出演/ヘンリー・フォンダ(ワイアット・アープ)
   リンダ・ダーネル(チワワ)  
   ヴィクター・マチュア(ドク・ホリデイ)
   ウォルター・ブレナン(老クラントン)
   ティム・ホルト(ヴァージル・アープ)
   ウォード・ボンド(モーガン・アープ)
   キャシー・ダウンズ(クレメンタイン・カーター)
   アラン・モーブレイ(グランヴィル・ソーンダイク)
   ジョン・アイアランド(ビリー・クラントン)
   グラント・ウィザーズ(アイク・クラントン)
   ロイ・ロバーツ(町長)
   ジェーン・ダーウェル(ケイト・ネルソン)
   フランシス・フォード(老兵)

1947年度キネマ旬報ベストテン第2位
   

2008年10月13日月曜日

『馬路天使』 周璇・歌う街角の天使


前回に続いて上海ものだが、今回は外国人の目から見た上海ではなく中国人自身が描いた上海である。この作品が製作された1937年は7月に盧溝橋事件があり、8月には上海事変が勃発するといった緊張した状況下だったが、それまでの30年代の上海映画界はアメリカ映画の影響を受けつつ娯楽の主流として勃興しつつあり、聯華、明星といった映画会社が活況を呈し、次々と新しい映画を製作していた時代でもある。戦火の広がった翌1938年から映画界も製作が困難に成っていくことから、最後の爛熟期の1本といえる。
この『馬路天使』も大手の明星の製作で、当時すでに少女歌手として人気を博していた周璇(チョウシュアン)をヒロインに起用し、現在も中国映画の歴史に残る100本(亜州周刊誌選出)としてあげられる当時の中国映画の代表作である。周璇は李香蘭や渡辺はま子が歌いヒットした「何日君再来」のオリジナルの歌手でもありテレサ・テンが再びこの曲に命を吹き込んだことでも知られているが、『馬路天使』で挿入歌として彼女が歌った「天涯歌女」「四季歌」もいまなお中国で広く歌い継がれている。中国ではいわば美空ひばりのような存在といえるのかもしれない。

映画のオープニングは魔窟といわれたキャバレー「大世界」の怪しいネオンサイン、外灘(バンド)をはじめとした当時の上海の姿が映し出され、近代的なブロードウェイマンションのビルをカメラが上から下になめた後、断層的に地下にもぐっていき繁栄とはかけ離れた貧窮する庶民の暮らす上海の街角へと切り替えていく。未見なので知らなかったが評論家の佐藤忠男の『キネマと砲声』(岩波現代文庫)によると1927年のハリウッド映画『第七天国』(フランク・ボーゼージ監督)からインスパイアされたものらしいが、当時の上海の里弄といわれる庶民の集合住宅の様子が伺えて興味深い。なにせ地元の人たちが作った映画である。当時の魔都に憧れる後世の日本人や西洋人たちが頭の中でイメージしたロマンチシズムの上海ではなく、生活の場であるリアリズムの上海の姿がそこにはある。

主人公の小紅(周璇)は姉の小雲とともに戦火の東北部から上海に流れ着いてきて、酒場で流しの二胡ひきに連れられ歌うことで生きながらえている。芸のない姉は街角に立つ野鶏(娼婦)に身を落としていた。小紅の部屋の向かいに住む小陳(趙丹)はしがない楽隊のラッパ吹きだが明るい青年で、心を寄せる小紅と窓越しでおしゃべりしたりするのがなによりの楽しみである。仲間の新聞売りの老王(魏鶴齢)ら5人組で貧しくも日々を明るく生きていた。理髪店などで働くちょっと頭の足りない仲間たちもみな人がよく、ごみためのような底辺社会でも助け合いたくましく生きている庶民の姿をチャップリンの無声映画のごとくコミカルに描いている。
しかし可愛い小紅に目を留めたやくざが酒場のやり手婆にわたりをつけ売春婦として売り飛ばそうと画策する。ここから話はにわかにシリアスになっていき、前半のコメディっぽいトーンから映画は結局やりきれない悲劇的な結末へと向かって行くことになる…。

『馬路天使』とは街角の天使という意味だが、主人公の天使のような少女・周璇という意味だけではなく、姉・小雲のような街娼そのものを指す意味もある。映画のクライマックスで妹をかばい自らの命を投げ出してしまう小雲のとった行動こそが真の天使なのではないだろうかと観るものに問いかけているようで、なかなか製作側の単なる娯楽作品だけにはしたくないといった強い思いを感じさせる。恋人の姉の職業を蔑む小陳に対して“一生懸命生きている仲間じゃないか”と仲間の老王に諭され目が覚めるエピソードなどは社会矛盾に対する原初的なプロパガンダとも言えよう。
監督・脚本の袁牧之はじめこの映画に携わった人の多くが、翌年明星公司の解散とともに抗日地区へと逃れていくのも当時の映画青年たちの当然の帰結だったのだろうし『馬路天使』で描かれていた社会派的な側面は、貧しい大国・中国を貪る外国勢力に対する中国のインテリゲンチャの抵抗の現れであるのかもしれない。

ヒロインの周璇は当時17歳。人気の絶頂にいた李香蘭こと山口淑子ですら“憧れのスターだった”と自伝で記している。彼女は身体が弱く『馬路天使』のスタッフのように抗日地区への転進を果たすことはできずその後も上海にとどまっていたが、夫となった音楽プロデューサー厳華との結婚生活に失敗し精神を病んでしまった。戦後カムバックするも何度かのスキャンダルを起こしその後二度の結婚生活に失敗し、1957年失意のうちに栄光と薄倖の人生を終えた。はちきれんばかりの若さに満ちた映画の中の彼女の姿を見ていると、実生活におけるその後の苦難の道のりがオーバーラップしてきて本当に切なくなってしまう。彼女の人生に関しては作家の故・中薗英助氏の著書『何日君再来物語』(河出書房新社)に詳しい。

周璇の二人の遺児はその後、中国を代表する大俳優となったこの映画で共演した小陳こと趙丹の手によって密かに引き取られ育てられたという。『馬路天使』は多くの映画人の運命を変えていったが、あらゆる意味で文字通り天使のような人間像を創出し、いまに輝く名作として光を放っているのである。

●馬路天使(1937年中国明星影片公司作品)
監督・脚本/袁牧之
撮影/呉印咸
音楽/賀緑汀
作詞/田漢
出演/周璇(小紅)
   趙丹(小陳)
   魏鶴齢(老王)
   趙慧深(小雲)
   王吉亭(二胡ひき)
   銭千里(理髪師)

2008年9月14日日曜日

 『上海特急』 銀幕の名花を彩るエキゾチシズム


1930年『嘆きの天使』で名も無き舞台ダンサーだったマレーネ・ディートリッヒを発掘し一躍銀幕の大女優へと押し上げたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督が、その後コンビでハリウッドに進出し『モロッコ』(1930年)『間諜X27』(1931)をはじめ1930年代前半の映画界を席巻した一連の大ヒット作品の中の1本。
舞台は動乱の中国。北京(当時は北平)から上海への長距離列車の一等客車に乗り合わせた様々な国籍と怪しい背景を背負う9人の男女が、反乱軍の列車ジャックに遭遇し、その極限状況の中で愛と憎しみが織り成す人間模様を描いたもの。ヒロインのディートリッヒは“上海リリー”の通り名を持つ妖艶な謎の女を演じ、かつて愛しあったことがあった英軍軍医と再び恋の炎を燃やす。

1932年の作品だが、この映画は中国を舞台にしつつも現地のロケは一切無く全編ハリウッドのスタジオで製作されている。当時の北京、上海を再現するので多くの東洋人エキストラが動員され雰囲気はまあ作り上げているのだが、そこはやはり欧米人のイメージする中国なので、やはりどこかへんてこりんな世界ができあがってしまっている。
北京―上海を結ぶ鉄道ということは京滬線ということなのだろうが、蒸気機関車が北京を発車する際のシーンでは鉄路が市場のような通りの軒並みのぎりぎりのところに引いてあって、人がごった返し、牛が道をふさぎ、発車すると放し飼いの鶏を蹴散らしながらそろそろと動き出す。いくら当時の中国が混乱期にあったからといったってそんなわきゃねーだろうw。
また、列車を乗っ取る革命軍の首領が白人と中国人の混血という苦しい設定(どうみてもアジア人には見えないが)なのはまだしも、革命軍やら反乱軍やらの兵隊たちの軍服が変なサーベルは吊ってるは、中東の兵隊のような妙な軍帽をかぶっているはで、いたって正体不明なのだ。
しかもこの混血の首領というのがでっぷりとした好色親父で、乗客の中国娘(アンナ・メイ・ウォンがいい味出している)を手篭めにしたり、ディートリッヒを囲おうとしたり、ステレオタイプの悪ものといった風でメキシコの山賊といったほうがしっくりくる。
1931年の設定ということなのだが、史実でいくと当時の革命軍といえば瑞金ソビエト政府を打ち立てて勢力を拡大しつつあった共産党がまず第一に想定されるが、映画の中の革命軍はとても規律の正しい紅軍とは思えない。その頃までには北伐後の中原大戦に勝利した蒋介石が地方軍閥を平定し国民政府を打ち立てていたわけだから、最大限好意的に判断しておそらくは私兵を率いて蒋介石に対抗している地方軍閥の残党だと思ってあげるべきなのだろう。

とまあ、つっこみどころはたくさんある作品だが、当時絶頂期だったディートリッヒのエキゾチシズムに満ちた頽廃美は否定の仕様が無い。スタンバーグが愛情を注ぎ入れ込んだこの女優に対して、どうすれば妖艶な美しさをスクリーンに反映させられるか考え抜かれた、まさにその1点に集約された作品と言ってもいいだろう。列車の扉の影で一人たたずみ、恋する男に裏切りの誤解を受けながらも無償の愛情の狭間でゆれる女心を震える煙草を持つ手で表現するシーン。モノクロームの陰影と光を最大限に効果的に活かした素晴らしい瞬間を創り上げている。
この年のアカデミー賞の撮影賞を受賞したのも、決して仮想世界の中国の再現ではなく、ストーリーテリングの甘さをカバーして余りあるディートリッヒという女優個人に対するこの撮影において与えられたものだと思いたい。

スタンバーグは実生活でディートリッヒとの仲を疑った妻から離婚訴訟を起こされたほど入れ込んでいたが、その後1934年の『西斑牙狂想曲』の不入りでコンビを解消した。
異常なまでの密度の濃い二人の時間もわずか4年で終わったわけだが、これ以後スタンバーグの名は次第に色あせていく。一方でディートリッヒは銀幕の名花として華々しい成功の道を歩んでいくのだが、その後の作品で撮影が決まらなかったり、気に入らなかったりすると「どこにいるのよ、ジョー」とつぶやくこともあったそうである。

●上海特急
(1932年米パラマウント作品)
監督/ジョセフ・フォン・スタンバーグ
原作/ハリー・ハ―ヴェイ
脚本/ジュールス・ファースマン
撮影/リー・ガームス
出演/マレーネ・ディートリッヒ(マデリーン)
   クライヴ・ブルック(ハーヴィー軍医)
   アンナ・メイ・ウォン(フイ・フェイ)
   ワーナー・オーランド(ヘンリー・チャン)
   ユージン・パレット(サム・サルト)

1932年度アカデミー賞撮影賞。

2008年8月22日金曜日

『群集』 ヒューマニズムに希望を託して


名匠フランク・キャプラ監督が『オペラハット』(1936)、『スミス都へ行く』(1939)に続いて、アメリカンデモクラシーをテーマに描いた作品で、私自身いままで未見だった1本である。
前の2本がピューリタニズム的善意を基調とした正義が、悪なるものに立ち向かい勝利するという展開をたどっていたのだが、この『群集』では主人公ウィロビー(ゲーリー・クーパー)のイノセントな朴念仁的キャラクターこそ共通するもののいささか趣を異にする暗さを感じさせる。それゆえにハートウォームなキャプラ作品では異色作と捉えられるからか日本では前記2作品や『或る夜の出来事』(1934)、『素晴らしき哉、人生!』(1947)などに比べこれまであまり評価されることがなかったように思える。
特に社会の木鐸たるメディアが使い方次第で大衆を意を持って操縦できる危険性をはらんだものであることに警鐘を鳴らした内容は、現代に置き換えてみても不気味なほどリアリティがあり観るものに迫ってくる。製作はすでに世界大戦下に突入した1941年。政治宣伝やフレームアップという大衆煽動によって台頭したナチズムに対しての強烈な揶揄であることは明らかなのだが、民主主義の思わぬ落とし穴を内なるアメリカの新聞社を舞台に問題提起したあたりに、そこは自由を求めて新大陸へと移住してきた異邦者としてのアイデンティティに起因するものなのか盲目的なアメリカンデモクラシー賛美に対するキャプラのシニカルな見方を感じてしまうのである。

物語は社主が変わった新聞社がリストラを図るところから始まる。クビを宣告された女性記者アン(バーバラ・スタンウィック)が腹いせにコラムで一市民ジョン・ドゥ氏からの投書で“世の不正に抗議してクリスマスの晩に市庁舎から飛び降り自殺する”というでっち上げ記事を載せるのだが、これが思わぬ反響を呼んで新聞は売り上げが急増する。アンは自分の社内での生き残りをかけ、新聞社にこの投書の主ジョン・ドゥを実在するように作り上げる提案をもちかけ、新聞社も売り上げのために失業中の元野球選手のウィロビー(クーパー)に白羽の矢を立てる。
ジョン・ドゥ=ウィロビーはメディアに引っ張りだこになり金欲しさからアンの言うがままに隣人愛を説き正義を謳い上げる演説をするのだが、それが多くの人々の共感を得てジョン・ドゥ倶楽部やジョン・ドゥ党といった善意の大衆運動へと発展していく。その人気に目をつけた新聞社の社主はある計略を立てるのだが…。



原題は『Meet Jhon Doe』。ジョン・ドゥというのは身元が明らかではない犯人や死体に便宜的につけられる慣用的な名前で、いわば“名無しの権兵衛”といったところだろうか。名無しの権兵衛がメディアの操作によってヒーローに祭り上げられていく過程は、活発な女性記者とお人よしの主人公というパターンでキャプラ的なコミカルなドラマが展開していくのだが、権力者の狡猾な情報操作とその危険に目が覚めたウィロビーとアンに対して権力側の攻撃が開始される後半部で物語は一転してにわかにシリアスになっていく。
自分の素性と権力者の意図を暴露しようとマイクの前に立つウィロービーに、マイクの音声を絶ちサクラの野次により発言を封じ込められるシーンは、クーパーの失意と焦燥が伝わってくるような映像に手に汗握らされる。60~70年代の伝説的な映画誌「映画芸術」を主宰した評論家の故小川徹は三島由紀夫の決起になぞらえていたが、確かに権力側に飼いならされてしまった小市民としての自衛隊員が罵詈雑言を浴びせるニュース映像に、政治的な立場は違えども大衆への情報操作、それにともなうマスヒステリアの空恐ろしさという意味では共通する部分があるのかもしれない。

退路を絶たれた三島は自刃の道を選び、この映画の主人公も一旦は当初設定された自殺への道に追い込まれるのだが、キャプラはそれでも“群集”のなかにきわどく踏みとどまった善意や愛情の勝利に希望を託すのである。貧困からの逃避や自由への希求から新大陸にやってきたキャプラにとっては、ペシミスティックな結末を選ぶはずもないのだろうが、この『群集』では鮮やかな正義の逆転劇を披露するわけでは無く、あくまで声高にならず控えめながらも力強くヒューマニズムへ信を置いたところに、逆に映画自体を一段高い価値にまで押し上げていったのかもしれない。

ゲーリー・クーパーもバーバラ・スタンウィックも演技者として全盛期を迎えちょうど油が乗った頃だったので本当に魅力的である。しかしながらそれゆえにこの年、クーパーは『ヨーク軍曹』で、スタンウィックは『教授と美女』でそれぞれオスカー主演男女優賞にノミネートされており(クーパーは受賞)、『群集』は割を食った形になり、わずか原案賞にノミネートされただけであった。
オスカーは逃したものの、この作品のアメリカでの評価は高く、“次代へ遺すアメリカ映画”にも選出されているそうである。
フランク・キャプラをリスペクトする映画人は多いが、この作品に関してはジョエル&イーサン・コーエン兄弟が『未来は今』(1994)でオマージュとして題を取っている。

●群集
(1941年米作品)
製作・監督/フランク・キャプラ
脚本/ロバート・リスキン
原案/リチャード・コネル、ロバート・プレスネル
撮影/ジョージ・バーンズ
音楽/ディミトリ・ティオムキン
出演/ゲイリー・クーパー(ウィロビー)
   バーバラ・スタンウィック(アン)
   エドワード・アーノルド(ノートン)
   ウォルター・ブレナン(大佐)
   ジェームス・グリーソン(コネル)

2008年8月6日水曜日

『巨星ジーグフェルド』 天空への階段


アメリカショウビズ界の伝説的なプロデューサー、フロレンツ・ジーグフェルドの生涯を描いた作品。1936年度の第9回アカデミー賞で7部門にノミネートされ、作品賞、主演女優賞(ルイーゼ・ライナー)、ダンス監督賞の3部門でオスカーに輝いた。私自身はMGMの創立50周年を記念してミュージカル映画の集大成として製作された『ザッツエンタテインメント』(1974年)で初めてこの映画を知ったのだが、厳密に言えばミュージカルというよりは伝記的なドキュメントドラマといった意味合いが強い。とは言うものの豪華絢爛たるジーグフェルドフォリーズの創始者の映画ということで、舞台シーンやダンスシーンが当然次から次へと再現されていてミュージカル映画とカテゴライズされるのももっともである。

フロレンツ・ジーグフェルド(1869-1932年)はシカゴの見世物小屋の興行師から身を起こし、1910年代に美しい女性を集めたレビュー「ジーグフェルドフォリーズ」を創設し人気を博す。この映画にも実際にフォリーズの人気ものだったファニー・ブライスとハリエット・ホクターが出演しているが、フォリーズからは当時一大産業になりつつあった映画界にもニタ・ナルディ、メイ・マレーといったサイレント時代の大女優を輩出した。チャップリン夫人になったポーレット・ゴダードやバーバラ・スタンウィックなどもフォリーズ出身で、20年代のヨーロッパを熱狂させ時代の寵児となった黒人ダンサーのジョセフィン・ベイカーもフォリーズの舞台に上がっている。ジーグフェルドは21本のフォリーズ作品のほかブロードウェイのミュージカルも数多く手がけ、アメリカのショウビジネスの基礎を築くことになる。

『ザッツエンタテインメント』でも紹介されたジーグフェルドフォリーズの第1作“A Pretty Girl Is like a Melody”(アービング・バーリン作曲)の舞台の再現シーンがこの映画の圧巻。175段の階段、総重量100トンの渦巻状の塔に、82人のダンサーや歌手が主題曲やジャズやクラッシックのメドレーを歌い踊る。
その巨大な舞台をカメラが回転しながら頂上に追っていくと頂点にヴァージニア・ブルース扮するフォリーズのスター、オードリー・デインが鎮座していて微笑んでいる。見上げれば天空から純白のカーテンが階段を覆い尽くすように降りてくる。この観るものの度肝を抜く大掛かりなセットは、当初作品自体ユニヴァーサルで進められていた企画だったのだが、あまりにも制作費が高騰しMGMに権利を譲り渡したという逸話つきである。3時間近い長丁場の作品だがこのシーンを見るだけでも価値がある。
黒い燕尾服の男たちと純白のドレスの女たちの群舞、白と黒だけの世界がいかに贅沢で美しいのか如実に表現したモノクローム芸術の極致といえよう。



この映画が製作された年、日本は2.26事件が勃発、戦争へひた走る不安の中にあった。よく映画を通して“こんな国と戦争するのか”と認識したという当時の世代の人たちの証言を聞いたものだが、確かにこの階段シーン一つとっても文化レベルの差を痛いほど感じさせる。戦後、昭和31年に東京・大阪でコマ劇場ができ、劇場名の由来となった独楽のように回る3層のせりあがり舞台が人気を呼んだのだが、その原型はこの映画で紹介されたジーグフェルド・フォリーズにあるのだろうか?
また、ドラマとしても恋愛あり、事業の成功と失意あり、夫婦愛ありでなかなか飽きさせない。映画の後半に描かれたブロードウェイのスタンダードになった『リオ・リタ』『ショウボート』『三銃士』『フーピー』4作品への資金調達のくだりあたりは、投資対象としてのショウビジネスが現在のシステムとほとんど変わっていなかったり、草創期のアメリカのエンタテインメント産業を知る上でなかなか興味深いものがある。

ジーグフェルドを演じたのはウィリアム・パウエル。ジーグフェルドの最初の妻となったアンナ・ヘルド役にこの作品でオスカーに輝いたドイツ人女優ルイーゼ・ライナー、そして晩年を支えた再婚相手の女優ビリー・バーク役は『影なき男』でパウエルと共演し名コンビといわれたマーナ・ロイ。
パウエルは1946年に公開されたMGMミュージカル『ジーグフェルド・フォリーズ』(ヴィンセント・ミネリ監督)で再びジーグフェルド役を演じた。監督のロバート・Z・レナードも1941年『美人劇場』でフォリーズを題材にした作品を手がけジュディ・ガーランドを階段セットの頂点に座らせた。ジュディ・ガーランドはその後1946年にヴィンセント・ミネリと結婚(ライザ・ミネリはその娘)。ジーグフェルドの威光なのかなにか不思議な縁を感じさせる人間関係である。

アメリカのショウビジネスのスケールの大きさ、奥深さを感じさせる秀作。


●巨星ジーグフェルド
(1936年米MGM作品)
監督/ロバート・Z・レナード
脚本/ウィリアム・アンソニー・マクガイア
   シーモア・フェリックス
音楽/アーサー・ラング
   フランク・スキナー
   ウォルター・ドナルドソンほか
出演/ウィリアム・パウエル(フロレンツ・ジーグフェルドJr)
   ルイーゼ・ライナー(アンナ・ヘルド)
   マーナ・ロイ(ビリー・バーグ)
  ヴァージニア・ブルース(オードリー・デイン)

1936年度アカデミー賞作品賞・主演女優賞・ダンス監督賞
          

2008年7月28日月曜日

『第三の男』 美しくも切ないラストシーン


栄えある第一回目の銀幕倶楽部の作品に選んだのはキャロル・リード監督の不朽の名作『第三の男』。
実はたまたま先月、ウィーンに行く機会があったので予習のために見直してみたばかりである。実際に撮影の舞台となったウィーンの街を映画のシーンを思い浮かべながら歩いたため、現在この1949年制作の何度も繰り返し見てきた作品が個人的に最も新鮮な映画作品でもある。
また、この映画の全編に奏でられるアントン・カラスのツィターの調べは、日本ではビール会社のCMに使われたばっかりに恵比寿駅の発車音楽にまで使われるほどスタンダード化してしまったので、映画を見たことが無い人でもこの曲を知らない人はいないだろう。

原作はグレアム・グリーン。ただし元々が映画化を前提にストーリーが書かれたものである。戦後の4カ国共同管理化のウィーンを舞台に、はびこる闇商人の陰謀にアメリカの作家が巻き込まれていくサスペンスなのだが、有名になりすぎた映画音楽だけでなく1949年のカンヌ映画祭のパルムドール、1950年度のアカデミー賞撮影賞を受賞したモノクロームの特殊効果を存分に発揮し、映画の教科書とも言われる幾多の名場面で映画史上に残る作品である。
特に映画の後半、オーソン・ウェルズのハリー・ライムが窓の明かりで浮かび上がるように登場するシーン。友人のアメリカ人作家マーティンス(ジョセフ・コットン)が後を追うのだが、大きく伸びた影と足音だけで緊迫した追跡シーンを表現する映像テクニックは何度見ても素晴らしい。名優ウェルズの観覧車でのインパクトの残る台詞と人物表現、焦燥感に満ちた地下道の逃亡シーン、一つ一つのショットのエピソードの集積が物語に命を吹き込み、見るものすべてを緊迫した状況に立ち合わせてしまうのだ。

日本での公開は1953年。封切り以来大ヒットとなり日本の映画製作者たちにも衝撃を与えたのだろう。5回立て続けに見たという故植草甚一氏は当時の「映画の友」の中で、これらの名シーンの数々をこんな風に批評している。
“この映画のストーリーをいくら書いたところで『第三の男』をみた印象が生き生きとしてこないのは、映画によって初めてもっとも効果的に表現できるこれらの細部が文章で表現するのが非常に難しいからです”
また後に日本映画を代表する監督になった当事日活の脚本を書いていた若き熊井啓は、赤木圭一郎のアクション映画『霧笛が俺を呼んでいる』に早速プロットをインスパイアさせて一気に書き上げた。

そして、原作にも無かった強烈なラストシーン。
ハリー・ライムの葬儀の後、落ち葉が舞い散る墓地の並木道。友であるハリー・ライムを裏切ることで窮地を救おうとした愛する女性を待つ男。並木道の彼方から歩いてくるその女性は、しかしながら自分の恋人だったライムへの裏切りを許すことは出来ない。男の前を無言で一瞥することも無く歩き去る女性。
この長い長いシークエンスで男女の心のうちを一言の台詞もなく表現したこのラストによって、『第三の男』は映画史に残る名作となったと言ってもいいだろう。
原作でハッピーエンドに終わらせてしまったグレアム・グリーンは映画を見た後、キャロル・リードに対して“負けてしまったよ”と言わせしめたそうである。

この作品にかかわったほとんどの人がすでに鬼籍に入ってしまった中、この美しく切なくもやりきれないラストシーンを“歩いた”ヒロイン、アンナを演じたアリダ・ヴァリだけがつい最近まで健在だったのだが、一昨年84歳で息を引き取った。




●第三の男
(1949年英ロンドン・フィルム・米セルズニックプロ作品)
原作・脚本/グレアム・グリーン
製作・監督/キャロル・リード
撮影/ロバート・クラスカー
音楽/アントン・カラス

出演/ジョセフ・コットン(ホリー・マーティンス)
   アリダ・ヴァリ(アンナ)
   トレヴァー・ハワード(キャロウェー大佐)
   バーナード・リー(ペイン軍曹)
   エルンスト・ドイッツェ(クルツ男爵)

   オーソン・ウェルズ(ハリー・ライム)

1949年 カンヌ映画祭パルムドール
1950年 英国アカデミー賞 作品賞
1950年 アカデミー賞 撮影賞(白黒部門)
1953年 キネマ旬報ベストテン2位

パブリックドメインの時代に

以前、若手の編集者と飲み会の席で映画談義となった。まあ、よくある“今まで見た中のベスト10は?”というような他愛のない話だったが、驚いたのは件の彼が挙げたのが『フィラデルフィア』『アポロ13』『ワーキングウーマン』…。まあ悪い映画ではないが、私にとってみればごく最近のヒット作の域を出ない作品ばかりだ。確かに年齢的には20歳ほど差はあるが、またそれぞれの趣向や好みも確かにあるだろう。それにしても自分の人生を変えるような作品の出会いがこのレベルかと内心いささかあきれてしまった。
“ほら、もっとさあ、『カサブランカ』とか『禁じられた遊び』とか、黒澤ものとか、他に名作あるだろう”
と問うと、“なんかモノクロっていうことだけで敬遠しちゃうんですよね”と、悪びれずにのたまう。

“何を!モノクロだと言うだけで見ないのか!!!とりあえず、明日、500円の安売りDVDで『カサブランカ』買って観ろ。そしてその感想を提出しろ。オレと映画の話をするならそれからだあああ”

思わぬところで先輩たる私から言われなき宿題を与えられてしまった若手クンは、それでも感心にも早速買い込んだのだろう。2,3日たってすぐに報告してきた。
“いやああ、渋いすねボガート。男の生き様を堪能しました!ダンディズムの極致ですよ”と感動覚めやらぬ様子。そうだろうそうだろう、食わず嫌いとはこのことだ。
ところが若手君は更にひと言、こう付け加えた。
“いや、でもね『カサブランカ』って、カラーだったらもっと感動したんだけどなあ”

こういう感想は何もこの若手クンに限ってのことではない。
実は、アメリカでもそういう議論は結構あって、実際に『カサブランカ』はテッド・ターナーがワーナーの副会長に就任した際に試み賛否両論だったことがあるのだ。
しかし、安直に名作モノクロ映画をカラーに着色したところで作品の本質は図れないだろうし、モノクロフィルムを光の入れ加減や陰影で登場人物たちの心の動きを表現したり、映像表現の効果に心血を注いだ映画界の先人たちの功績を無視するに等しい行為だと、個人的には思う。
更にいえば、モノクロームの世界にこそ美しさを表現できる映像というものがあると確信している。

映画が出来て100年以上経過し、著作権法で決められた期間を超えて経年によるパブリックドメインの作品が世に出回るようになった。しかもそれが本屋や駅の特設売店とかでワンコイン(500円)で自分のものに出来る時代となってしまったのである。マスタープリントではない安易なDVD化に対して原版権を持っている映画会社や、肖像権をたてに取る権利継承者の訴えによってこれらワンコインDVDの販売は未だに問題がないわけではないが、いまのところ原則法的には止められないと言うことのようだ。

反面、ファンの立場からすれば誰もが名作と認める作品や、公開後、テレビ放送すらされなかった歴史に埋もれていた作品も、気軽に手に出来るようになったメリットはとてつもなく大きい。記憶と言うのはあいまいなもので何度も繰り返してみた作品だってDVDで観るたびに新しい発見がある。
何もワンコインDVDはオールドファンだけのものではない。前述の若手編集者のようにパブリックドメイン化して初めて作品にたどり着くケースも山ほどあるだろう。

私にとってみればおさらいということもある。著作権法の是非はひとまず置いておいて、まずは本屋にいけば特設の什器に並ぶ名作の数々に出会えるという時代に生きれる幸運を認識しながら、かつて観て感動した作品、また見逃してきた作品をできるだけ集めたいと思っている。
それもこれも若手編集者と飲み屋の映画談義が発端となって思いついたことではあるのだが、いまさらながら、とは思うものの“銀幕”の世界に魅了されし一人の映画ファンとして、他愛のない鑑賞日記(ワンコインDVD中心だが、リバイバル上映やテレビ放映も念頭に入れつつ)を飲み屋の映画談義のようにこのブログの場を借りて書き綴って行けたらと思っている。

2008年7月18日金曜日