2008年12月16日火曜日

『荒野の決闘』 敗北の中の栄光


よくベストの映画10本を選ぶとすれば?と聞かれることがあるが、映画ファンなら誰しもそうだと思うが一番困り果てる質問でもある。
映画がこの世に出現して100年以上経過し、膨大に生まれた作品のなかでわずか10本を選ぶなんて出来る相談ではない。せめてジャンル別にしてもらったり、製作国別にしてもらったり、年代別にしてもらったり、と絞りこんでみたところであれも、これもと悩むことは言うまでもないことである。
評価すべき映画、好きな映画、泣ける映画、笑える映画、そんな側面から見たってなかなか選びきれない。

ただしそんな中で、好きな映画ということで言えば、この作品だけは入れておきたいという一本がジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演1946年公開の『荒野の決闘』(原題MY DARLING CLEMENTINE)である。
いわずとしれた保安官ワイアット・アープのOK牧場の決闘を描き、そのアメリカ民謡からのテーマ曲は日本では「雪山讃歌」と改められ誰しもが耳に親しんだものとして記憶されている。
日本公開は1947年。まだ焼け跡が残る街の映画館で溢れかえる観客が爪先立ちになりながら人の肩越しにスクリーンを息を詰めてみつめていたと、当時を知る人から聞いたことがある。その熱狂振りは主演のヘンリー・フォンダが1962年『西部開拓史』のPRで来日した際、歌舞伎役者たちと会った席でアープ役の話でもちきりだったとハワード・タイクマンによる伝記『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』中で述懐しているところからもこの映画の当時の人気のほどが伺える。

もちろん私自身は後追いでテレビ放映がこの映画との最初の出会いだったが故小山田宗徳の名吹き替えとともに感激しまくり、その後も何度も何度もテレビで、ビデオで、DVDになっても繰り返し観てそのつどラストの別れのシーンに感動し続けている。大学生の頃、当時市販されていた同人雑誌『西部劇通信』の追憶の<荒野の決闘>特集を買い求めたとき、巻末の編集部員募集告知で“無給でこきつかうがこの道で食べていけるくらいにはさせる”という条件だったが本気で‘就職’を考えたくらいだ。壮大なモニュメントバレーの景観、詩情溢れる開拓時代の空気が満ちるトゥームストンの情景、すいかずらの香とともに荒地に建てられた教会で無骨な男が踊るダンスシーン、手に汗握るガンファイト、そして言うまでもない“Ma'am I sure like that name,Clementine!”という忘れがたいラストの名せりふ、好きな女にこんな婉曲にしか思いを伝えられない男の純情。小山田吹き替えでは確か“実にいい名前だ、クレメンタイン!”と意訳していたが、ぐっと胸に迫る名訳ではないだろうか。そう、何度観てもどのシーンをとっても映画の醍醐味溢れる作品として、個人的にはベストの中からはずせない一本なのである。

名匠ジョン・フォードは『男の敵』(1935)『怒りの葡萄』(1940)『わが谷は緑なりき』(1941)『静かなる男』(1952)と映画史上不滅の生涯4度のアカデミー監督賞に輝いているが、『荒野の決闘』に関しては1946年度のアカデミー賞ではどの部門においてもノミネートすらされておらず、確かにその年はウィリアム・ワイラーの『我らの生涯の最良の年』が話題を独占してはいたが、興行収入は450万ドルを超える大ヒットとなったにもかかわらず作品の<評価>としてはまったく無視されてしまった。その意味では作品の出来いかんによらず観客からは支持され愛された映画といえるだろう。

現在では西部開拓史の中でOK牧場の決闘の逸話とワイアット・アープの存在は、相手役のドク・ホリデイの名とともにあまりにも有名だが、実はこの映画の公開まであまり一般に知られてはいなかったという。その意味でも『荒野の決闘』が映画史に与えた影響は計り知れないのである。そもそもは1930年にスチュアート・N・レイクという作家が『フロンティア・マーシャル』という実録ものでアープを取り上げたのがきっかけで、すでにジョージ・オブライエン、ランドルフ・スコットの主演で2度映画化されていたが、このフォードによる3度目のリメイクによってOK牧場の決闘は一気に万人の知るストーリーとなったのであった。以後、ジョン・スタージェスが『OK牧場の決闘』(1957)、『墓石と決闘』(1967)と2度にわたり映画化し、テレビドラマのシリーズも製作された。最近になってもカート・ラッセルや、ケヴィン・コスナーの主演で映画化されていわば西部劇の定番化していく。
実際、生前のアープ(1929年に81歳で死去)とジョン・フォードはサイレント時代に面識があり、撮影助手をしていたころ西部劇の撮影に見学に来たときに親しく話したという。そのとき聞いた実話によって『荒野の決闘』を作ったと、フォードはピーター・ボグダノビッチのインタビュー(『インタビュー ジョン・フォード全生涯全作品』九芸出版)に答えているが、フォードは史実を無視してドク・ホリデイを殺してしまったりしたが、むしろ決闘のディテールにその体験談を活かし息を吹き込んだ(実際の物語はスタージェス版に近い)。

そもそも『荒野の決闘』はフォックスと契約していたフォードが独立プロを作る前の最後の作品である。フォックスの社長ダリル・F・ザナックは最後の作品を確実に成功させたいという意向から何本かの脚本からこのリメイク企画を選んだのだが、既に自分の新しいプロダクションで製作する『逃亡者』の準備に入っていたこともあって当初フォードは乗り気ではなかったという。
とはいえ潤沢な制作費と『若き日のリンカーン』『怒りの葡萄』で気心が知れていたヘンリー・フォンダが戦争から戻り、エキストラにいたるまでの“一家”が集まってきたこともあってフォードも機嫌を直し製作は開始された。当時の撮影の開始に当たってのエピソードが前出の『西部劇通信』で田中英一氏によって紹介されている。
「スタジオに連中(一家)が集まってきた。何年ぶりかの再会であったが照れ屋のフォードはろくろくあいさつもせず、昨日も会ったようにジロッと見渡したが、みるみる機嫌が悪くなってきた。
 “俺が久しぶりに西部劇をやらかそうとしているのに…サムはどうした?フランクもいない、ジャックは相変わらず酔っ払って寝ているのか?” 
 配役係は答えた
 “サムはタラワで戦死しました。フランクはノルマンディで片足なくしてまだ陸軍病院です。ジャックは痛風で動けません。かみさんが代わりに息子を寄越しました―あの右から3番目のイキのいい奴ジャックにそっくりでしょう。あれが息子です”
 フォードはしばし空を見上げてから独りつぶやいた。
 “そうだった…戦争があったんだっけ…、それではと、残った連中がまだ馬に乗れるか、ジャックのところの若僧がロバくらいはまたげるかテストしてみなくちゃね”
 連中がいっせいに砂塵を捲いて走り去ると、フォードはチェアに腰を沈めてまた繰り返した。
 “そうだったな、長い長い戦争があったんだものなァ”」

『荒野の決闘』がなぜ人の心をうつのか。それは映画の全編を貫く喪失感にある。アープは兄弟を失い、老クラントンは息子を失う。ドク・ホリディは自分を慕う酒場娘を救えず医師の誇りを打ち砕かれ自らも病によって人生を失い、クレメンタインは恋人を失う。しかしながら生き残ったものたちは傷つきながらも明日に向かって生きるしかない。そこに敗北の中の栄光を見ることができる。自ら記録映画撮影のためカメラとともに戦地に赴いたフォードはそれを描いて見せたのだとボグダノビッチもインタビューで規定して見せた。上記のエピソードは真偽のほどはともかく、そんな敗者の栄光に思いを寄せるフォードの心情をあらわしたものとして心にしみる。
戦争で多くのものを失ったのは何もアメリカ人だけではない。戦った側の焼け跡で明日への希望を失った当時の日本人たちが、この映画に敗北の中にさえある栄光を感じ取り自らを重ねていたであろう事も想像に難くない。

ただ作品が出来るまでにはすんなりとは行かず幾多の紆余曲折があったようだ。フォードは老クラントン役のウォルター・ブレナンとはウマが合わず激しい口論をして“もう二度と仕事をしない”と宣言され(事実そうなった)、また当初望んでいた戦争の英雄でもあるタイロン・パワーに代わってドク・ホリデイ役に起用されたビクター・マチュアに対してつらくあたり、“メキシコ野郎”“レバーみたいな唇しやがって”などと執拗にののしった(実際はマチュアも戦争に行っていたのだが)。マチュアはそのせいで神経症にまでなりかけたが、かえってそれが不安定な役柄にプラスに作用し、また彼自身もより役に打ち込んだ。そのため結果的にはその後においても大根役者と酷評された彼の生涯の中で唯一無二の代表作となった。そして仕上がった初号試写では脚本の説明部分を大胆にカットし、登場人物の性格描写に力点が置かれていた演出にザナックは満足せず、自らフォードの撮った尺を30分以上もカットし、取り直しも入れて(ラストの頬へのキスシーンは有名)なんとか完成にまで持っていった。公開後世界的に大ヒットしたのは、興行をにらんだザナックの再編集の功であったとも言えるが、だからといってフォードが描ききった詩情溢れるフロンティアの世界の価値が損なわれたものではないことは言うまでもない。
ヘンリー・フォンダは好きな映画を問われると自己の名声を高めた『怒りの葡萄』や『十二人の怒れる男』とともに『荒野の決闘』もあげたが、人からアープ役を褒められると控えめに“あれはフォードの手柄だ”と付け加えたという。

そのフォンダも後に『ミスタア・ロバーツ』(1955)の演出を巡り殴り合いとなるほど対立した後、<一家>と決別することになる。『荒野の決闘』がそうであったようにフォンダは名優といわれながらも晩年の『黄昏』(1981)までアカデミー賞とはずっと無縁だった。彼自身もワイアット・アープの敗北の中の栄光を生き続けたのだろう。

●荒野の決闘
(1946年20世紀フォックス作品)
監督/ジョン・フォード
製作/サミュエル・G・エンジェル
原案/サム・ヘルマン、スチュアート・N・レイク
脚本/サミュエル・G・エンジェル、ウィンストン・ミラー
撮影/ジョー・マクドナルド
音楽/アルフレッド・ニューマン
出演/ヘンリー・フォンダ(ワイアット・アープ)
   リンダ・ダーネル(チワワ)  
   ヴィクター・マチュア(ドク・ホリデイ)
   ウォルター・ブレナン(老クラントン)
   ティム・ホルト(ヴァージル・アープ)
   ウォード・ボンド(モーガン・アープ)
   キャシー・ダウンズ(クレメンタイン・カーター)
   アラン・モーブレイ(グランヴィル・ソーンダイク)
   ジョン・アイアランド(ビリー・クラントン)
   グラント・ウィザーズ(アイク・クラントン)
   ロイ・ロバーツ(町長)
   ジェーン・ダーウェル(ケイト・ネルソン)
   フランシス・フォード(老兵)

1947年度キネマ旬報ベストテン第2位
   

2 件のコメント:

ask さんのコメント...

読み応えありました。

フォンダがハリウッドから嫌われていたのは、妻を自殺させてしまったこととか(ジェーンもピーターもずーっと許さなかった)もあるようで。「黄昏」で代理でジェーンがオスカーとってみると、やや“自作自演?”と思わなくもないものがありますが…。

フォックス時代のジョン・フォード映画は自分が作った、とザナックは言っていたようで、たしかに作品によってはフォードは現場仕切り&撮影だけで、編集以降はザナックということもあったような。

ま、どっちにしても「アイアンホース」「周遊する蒸気船」からかずかずの西部劇まで、たくさん面白い活劇を撮ったよ、ジョン・フォードは。ということで。

秋山光次 さんのコメント...

フォンダは“アメリカの良識”というような役柄の反面、その実像とのギャップが子供にとっては偽善的と映るのも仕方ないですな。
そんなこんなでジェーンは過激派になるし、ピーターは反社会的だし、フォンダ自身もマッカーシズムに異議を唱えたりしていたからハリウッド的には使いづらい人だったんでしょうね。

ザナックは「トラ!トラ!トラ!」で黒澤の首も切ったけど、やはり作家性より興行、ビジネスマンとしてはマーケティングに長けた才覚は凄かったということでしょうか。

フォードも西部劇以外に社会ものに名作を残しているからなあ、ホント偉大な人ですね。