2008年10月13日月曜日

『馬路天使』 周璇・歌う街角の天使


前回に続いて上海ものだが、今回は外国人の目から見た上海ではなく中国人自身が描いた上海である。この作品が製作された1937年は7月に盧溝橋事件があり、8月には上海事変が勃発するといった緊張した状況下だったが、それまでの30年代の上海映画界はアメリカ映画の影響を受けつつ娯楽の主流として勃興しつつあり、聯華、明星といった映画会社が活況を呈し、次々と新しい映画を製作していた時代でもある。戦火の広がった翌1938年から映画界も製作が困難に成っていくことから、最後の爛熟期の1本といえる。
この『馬路天使』も大手の明星の製作で、当時すでに少女歌手として人気を博していた周璇(チョウシュアン)をヒロインに起用し、現在も中国映画の歴史に残る100本(亜州周刊誌選出)としてあげられる当時の中国映画の代表作である。周璇は李香蘭や渡辺はま子が歌いヒットした「何日君再来」のオリジナルの歌手でもありテレサ・テンが再びこの曲に命を吹き込んだことでも知られているが、『馬路天使』で挿入歌として彼女が歌った「天涯歌女」「四季歌」もいまなお中国で広く歌い継がれている。中国ではいわば美空ひばりのような存在といえるのかもしれない。

映画のオープニングは魔窟といわれたキャバレー「大世界」の怪しいネオンサイン、外灘(バンド)をはじめとした当時の上海の姿が映し出され、近代的なブロードウェイマンションのビルをカメラが上から下になめた後、断層的に地下にもぐっていき繁栄とはかけ離れた貧窮する庶民の暮らす上海の街角へと切り替えていく。未見なので知らなかったが評論家の佐藤忠男の『キネマと砲声』(岩波現代文庫)によると1927年のハリウッド映画『第七天国』(フランク・ボーゼージ監督)からインスパイアされたものらしいが、当時の上海の里弄といわれる庶民の集合住宅の様子が伺えて興味深い。なにせ地元の人たちが作った映画である。当時の魔都に憧れる後世の日本人や西洋人たちが頭の中でイメージしたロマンチシズムの上海ではなく、生活の場であるリアリズムの上海の姿がそこにはある。

主人公の小紅(周璇)は姉の小雲とともに戦火の東北部から上海に流れ着いてきて、酒場で流しの二胡ひきに連れられ歌うことで生きながらえている。芸のない姉は街角に立つ野鶏(娼婦)に身を落としていた。小紅の部屋の向かいに住む小陳(趙丹)はしがない楽隊のラッパ吹きだが明るい青年で、心を寄せる小紅と窓越しでおしゃべりしたりするのがなによりの楽しみである。仲間の新聞売りの老王(魏鶴齢)ら5人組で貧しくも日々を明るく生きていた。理髪店などで働くちょっと頭の足りない仲間たちもみな人がよく、ごみためのような底辺社会でも助け合いたくましく生きている庶民の姿をチャップリンの無声映画のごとくコミカルに描いている。
しかし可愛い小紅に目を留めたやくざが酒場のやり手婆にわたりをつけ売春婦として売り飛ばそうと画策する。ここから話はにわかにシリアスになっていき、前半のコメディっぽいトーンから映画は結局やりきれない悲劇的な結末へと向かって行くことになる…。

『馬路天使』とは街角の天使という意味だが、主人公の天使のような少女・周璇という意味だけではなく、姉・小雲のような街娼そのものを指す意味もある。映画のクライマックスで妹をかばい自らの命を投げ出してしまう小雲のとった行動こそが真の天使なのではないだろうかと観るものに問いかけているようで、なかなか製作側の単なる娯楽作品だけにはしたくないといった強い思いを感じさせる。恋人の姉の職業を蔑む小陳に対して“一生懸命生きている仲間じゃないか”と仲間の老王に諭され目が覚めるエピソードなどは社会矛盾に対する原初的なプロパガンダとも言えよう。
監督・脚本の袁牧之はじめこの映画に携わった人の多くが、翌年明星公司の解散とともに抗日地区へと逃れていくのも当時の映画青年たちの当然の帰結だったのだろうし『馬路天使』で描かれていた社会派的な側面は、貧しい大国・中国を貪る外国勢力に対する中国のインテリゲンチャの抵抗の現れであるのかもしれない。

ヒロインの周璇は当時17歳。人気の絶頂にいた李香蘭こと山口淑子ですら“憧れのスターだった”と自伝で記している。彼女は身体が弱く『馬路天使』のスタッフのように抗日地区への転進を果たすことはできずその後も上海にとどまっていたが、夫となった音楽プロデューサー厳華との結婚生活に失敗し精神を病んでしまった。戦後カムバックするも何度かのスキャンダルを起こしその後二度の結婚生活に失敗し、1957年失意のうちに栄光と薄倖の人生を終えた。はちきれんばかりの若さに満ちた映画の中の彼女の姿を見ていると、実生活におけるその後の苦難の道のりがオーバーラップしてきて本当に切なくなってしまう。彼女の人生に関しては作家の故・中薗英助氏の著書『何日君再来物語』(河出書房新社)に詳しい。

周璇の二人の遺児はその後、中国を代表する大俳優となったこの映画で共演した小陳こと趙丹の手によって密かに引き取られ育てられたという。『馬路天使』は多くの映画人の運命を変えていったが、あらゆる意味で文字通り天使のような人間像を創出し、いまに輝く名作として光を放っているのである。

●馬路天使(1937年中国明星影片公司作品)
監督・脚本/袁牧之
撮影/呉印咸
音楽/賀緑汀
作詞/田漢
出演/周璇(小紅)
   趙丹(小陳)
   魏鶴齢(老王)
   趙慧深(小雲)
   王吉亭(二胡ひき)
   銭千里(理髪師)

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