2009年3月22日日曜日

『我等の生涯の最良の年』 よりよき明日を信じた頃


個人的には思い入れが強いジョン・フォードの『荒野の決闘』は1946年度のアカデミー賞でノミネートすらされなかったのだが、この年のアカデミー賞で圧倒的に評価されたのはウイリアム・ワイラーの『我等の生涯の最良の年』だった。ノミネートは実に9部門、そのうち最優秀作品、最優秀監督、最優秀主演男優、助演男優賞、製作賞、脚本賞、音楽賞、編集賞の8部門までを総なめ、さらに出演者のハロルド・ラッセルに対する特別賞を含めると9つのオスカーに輝いたのである。まさに1946年のアメリカ映画界はこの映画に始まりこの映画に終わったといっても過言ではない。

映画は3人の兵士が地方都市に帰郷する飛行機に乗り合わせ、その後のそれぞれが歩みだす人生模様を描いていくストーリーだが、希望に満ちたアメリカの戦後にも決してすべてが輝かしいものばかりではなく、帰還した戦争の英雄たちにもほろ苦い現実が待ち受けていた。それは戦後のアメリカの方向性がいったいどこに向かっていくのかという不安と、噴出する現実の社会問題に対してよりよき明日の到来を何とか信じたいという社会の実相を、この映画は3人の兵士とその家族、周囲の社会を通して描いていったともいえる。

1945年の第2次大戦の勝利と悲惨な戦争の終焉はアメリカ全土を熱狂させ、紙ふぶきが舞うタイムズスクエアを水兵たちが恋人を抱きかかえてキスし浮かれる戦勝の日の映像はあまりにも有名だが、勝った側にだってもちろんそれ相応の代償を支払ったのは考えてみれば当然といえば当然である。戦場に駆り出されたアメリカの青年たちのなかにも故郷の地を生きて踏めなかったものも多いし、生き延びたものの不具者になったものもいる、戦争後遺症をひきずりながら心の病を抱えさせられたものもいただろう。
そんな勝利の陰にある犠牲は、輝かしい栄光がクローズアップされる中ですっかり忘れさられていたが、戦争が終わってしばらくすると、アメリカ社会にも実は大きな傷を受けていたことが徐々に明るみになって、この映画は初めてその勝利の影の“負”の部分をクローズアップしたともいえる。これは当時のハリウッドでは大変勇気を必要としただろうし、その意欲的な取り組みだけではなく名匠ワイラーの手によって作品としても完成されたものとなったわけだから、この映画が評価されないわけがなかったのだろう。

映画に登場する3人の兵士は、フレデリック・マーチ扮する陸軍軍曹だったアル。ダナ・アンドリュース扮する空軍中尉のフレッド、ハロルド・ラッセル扮する海軍水兵のホーマー。それぞれ年齢も階級も所属も違うのだが、ただホーマーだけは両手を失って義手となってしまっている(ラッセルは職業俳優ではなく実際落下傘部隊の従軍で両腕を失った)。
アルは下士官だったが元銀行員で社会的にも恵まれている年配の紳士で、優しい妻と美しく賢い娘(テレサ・ライトが本当に可憐だ)と息子がいて、高級マンションに温かい家庭が待っている。フレッドは爆撃機の機長で武勲を挙げドゥーリトル中将から感状も与えられた英雄であるが、元はソーダファンテンの売り子で社会的には底辺出身、新妻がいたが戻ってみればキャバレーで働いていて享楽的な生活に染まってしまっていた。ホーマーは典型的な中産階級の出で、隣の家に住む幼馴染の優しいフィアンセが彼の帰りを待っている。
軍隊での序列と社会に戻ったときの階層のギャップは皮肉だが、戦後のそれぞれの第一歩を踏み出した彼らと、それを受け入れる側には、三人ともすんなりとは溶け込めない溝があることに気付くのである。

アルは銀行に復職するが、担保を持たない帰還兵に融資を認めることから上司から注意を受けてしまう。息子はといえば戦争の体験談を聞かせ渡した戦利品の日本兵の遺品のみやげものをあまり喜んではいないようだ(アルは日本兵をジャップと呼ぶが息子はジャパニーズと呼び、学校では彼らは家庭を大切にする国民だと教えられたと告げられる)、娘はよりによって妻がいるフレッドに恋してしまう。時代が変わってしまっているなかで一人ついていけない自分についつい酒量も増えるのだ。
フレッドは、輝かしい軍歴は実社会では全く一顧だにされず再びソーダの売り子で生計を立てざるを得ない。しかも妻は自堕落で、戦場の悪夢に夜な夜なさいなまれるフレッドを疎みだし口げんかが絶えないものだから優しいアルの娘に惹かれてしまっていく。
ホーマーはといえば、義手をはずせば一人で着替えもできない身体的ハンデを持つ身ではフィアンセに負担をかけてしまうのではないかと思い込み、優しくされればされるほどつい相手につらくあたってしまう。彼らにとっての戦争から解放された“生涯の最良の年”は何処に行ってしまったのだろう。あるいは戦争前の“生涯最良だった”年月はもはや奪われてしまい戻ってはこないのだろうか。『The Best Years of Our Lives』というタイトルは実に示唆に富み、色々な解釈ができるかのようだ。

帰還兵士を受け入れる社会の様々な問題もさることながら、アメリカ自体が大きく方向転換しだすその政治性もこの作品を見ているといやおうなしに気付かされる。フレッドの職場を訪れたホーマーが義手を使って器用にソーダを飲んでいるのを見た男から“本当の敵はドイツや日本ではなかったのに、君らは犠牲になった”とからまれ逆上したホーマーが“俺たちはまぬけだったということか?”と叫ぶシーンは、まさに冷戦の開始とあいまった戦後のアメリカの姿勢を浮き彫りにしている。戦争を主導した民主党に対する孤立主義的な共和党のアンチテーゼということなのだろうが(脚本のロバート・E・シャーウッドはルーズベルトのスピーチライターだった)やがて吹き荒れる赤狩りの時代の予兆とも見て取れるのである。

しかしながら三人三様の挫折も、決してハッピーエンドではないのだが、ホーマーの結婚式という場でよりよき明日に思いを託す救いを持たせてラストを迎える。この静かなエンディングは実に感動的で、この三人のその後の人生が決して悪いものとはならないであろうと思わせ、観るものそれぞれに彼らの人生の続きを想像させる。思えばこの1946年こそはやっぱり“生涯最良の年”で間違いなかったのだというようにである。

製作のサミュエル・ゴールドウィンは1944年のタイムの記事で帰還した兵士たちの手記を読んで着想を得、小説家のマッキンレー・カンターに物語にするように依頼したのだが、これが400Pを超える長編になってしまった。
アメリカを代表する現代画家のノーマン・ロックウェルの作品に帰還兵士を迎える一家を描いた画があるが(フレッドの実家はこのロックウェルの絵にそっくり!)、社会的にも続々と帰還する兵士たちの社会復帰をとりあげるのはまさに時宜を得ていたといえよう。映画化に当たってはロバート・E・シャーウッドがワイラーとともに議論を重ねながら脚本化したので原作とは全く異なるものになってしまったが、それでも2時間を越える長尺作品となってしまっている。

この長編をまったく飽きさせることなく一気に観せてしまうのは、ワイラーの演出もさることながらカメラを担当したグッレグ・トーランドの腕によるところも大きい。トーランドはパン・フォーカスの技法を駆使してオーソン・ウェルズの『市民ケーン』を指導した名手として知られるが、奥行きを取ったセットで長回しする手法は随所に生かされ、酒場でアルがホーマーとピアノを囲みながら奥のボックスで娘との交際をあきらめる電話をかけるフレッドを見つめるシーンなどは、画面の切り替えなしにまさにふたつの事象を同時進行であたかもその場にいるかのような臨場感を観る者に与えてくれる。特に解体された飛行機が飛行場のはずれに山積みにされているシーンは陰影をつけた光の取り入れ方とパンフォーカスでなめて行くことで寂寥感溢れる心理描写を見事なまでに表現している。モノクロ映画の芸術美の極致と言っても過言ではない、この作品でトーランドがオスカーを取れなかったのも不思議といえば不思議である。

日本での公開は2年後の1948年。まだ140万人の日本人が海外から帰還できずにいた時代である。復興が始まっているとはいえ焼け跡が残る街の映画館で、どんな想いでこの映画を観たのだろうか?帰れぬ夫や父親に思いをはせたのだろうか、占領軍として権勢を振るう米軍にも戦争で心の傷を負ったことを意外と思ったのだろうか?この映画を見た多くの日本人もそれぞれに明日を信じようと苦闘していた時代だった。様々な感慨とともに“生涯最良の年”を思い描いていたのかもしれない。

●我等の生涯の最良の年
(1946年 サミュエル・ゴールドウィン作品)
製作/サミュエル・ゴールドウィン
監督/ウィリアム・ワイラー
原作/マッキンレー・タイラー「私のための栄光」
脚本/ロバート・E・シャーウッド
撮影/グレッグ・トーランド
音楽/ヒューゴ・フリードホーファー
音楽監督/エミール・ニューマン
美術/ペリー・ファーガソン、ジョージ・ジェンキンス
出演/マーナ・ロイ(ミリー・スティーブンソン)
   フレデリック・マーチ(アル・スティーブンソン)
   テレサ・ライト(ペギー・スティーブンソン)
   ダナ・アンドリュース(フレッド・デリー)
   ヴァージニア・メイヨ(マリー・デリー)
   キャシー・オドネル(ウィルマ・キャメロン)
   ハロルド・ラッセル(ホーマー・パリッシュ)
   ホーギー・カーマイケル(ブッチ・エンジェル)
   グラディス・ジョージ(ホーテンス・デリー)

1946年度 アカデミー賞  最優秀作品賞
               最優秀監督賞
               製作賞
               主演男優賞
               助演男優賞
               脚本賞
               音楽賞
               編集賞
               特別賞(ハロルド・ラッセル)
1946年度 ゴールデングローブ賞 最優秀劇作品賞
               特別賞(ハロルド・ラッセル)
1946年度 BAFTA 最優秀作品賞
1948年度 キネマ旬報ベストテン2位

2008年12月16日火曜日

『荒野の決闘』 敗北の中の栄光


よくベストの映画10本を選ぶとすれば?と聞かれることがあるが、映画ファンなら誰しもそうだと思うが一番困り果てる質問でもある。
映画がこの世に出現して100年以上経過し、膨大に生まれた作品のなかでわずか10本を選ぶなんて出来る相談ではない。せめてジャンル別にしてもらったり、製作国別にしてもらったり、年代別にしてもらったり、と絞りこんでみたところであれも、これもと悩むことは言うまでもないことである。
評価すべき映画、好きな映画、泣ける映画、笑える映画、そんな側面から見たってなかなか選びきれない。

ただしそんな中で、好きな映画ということで言えば、この作品だけは入れておきたいという一本がジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演1946年公開の『荒野の決闘』(原題MY DARLING CLEMENTINE)である。
いわずとしれた保安官ワイアット・アープのOK牧場の決闘を描き、そのアメリカ民謡からのテーマ曲は日本では「雪山讃歌」と改められ誰しもが耳に親しんだものとして記憶されている。
日本公開は1947年。まだ焼け跡が残る街の映画館で溢れかえる観客が爪先立ちになりながら人の肩越しにスクリーンを息を詰めてみつめていたと、当時を知る人から聞いたことがある。その熱狂振りは主演のヘンリー・フォンダが1962年『西部開拓史』のPRで来日した際、歌舞伎役者たちと会った席でアープ役の話でもちきりだったとハワード・タイクマンによる伝記『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』中で述懐しているところからもこの映画の当時の人気のほどが伺える。

もちろん私自身は後追いでテレビ放映がこの映画との最初の出会いだったが故小山田宗徳の名吹き替えとともに感激しまくり、その後も何度も何度もテレビで、ビデオで、DVDになっても繰り返し観てそのつどラストの別れのシーンに感動し続けている。大学生の頃、当時市販されていた同人雑誌『西部劇通信』の追憶の<荒野の決闘>特集を買い求めたとき、巻末の編集部員募集告知で“無給でこきつかうがこの道で食べていけるくらいにはさせる”という条件だったが本気で‘就職’を考えたくらいだ。壮大なモニュメントバレーの景観、詩情溢れる開拓時代の空気が満ちるトゥームストンの情景、すいかずらの香とともに荒地に建てられた教会で無骨な男が踊るダンスシーン、手に汗握るガンファイト、そして言うまでもない“Ma'am I sure like that name,Clementine!”という忘れがたいラストの名せりふ、好きな女にこんな婉曲にしか思いを伝えられない男の純情。小山田吹き替えでは確か“実にいい名前だ、クレメンタイン!”と意訳していたが、ぐっと胸に迫る名訳ではないだろうか。そう、何度観てもどのシーンをとっても映画の醍醐味溢れる作品として、個人的にはベストの中からはずせない一本なのである。

名匠ジョン・フォードは『男の敵』(1935)『怒りの葡萄』(1940)『わが谷は緑なりき』(1941)『静かなる男』(1952)と映画史上不滅の生涯4度のアカデミー監督賞に輝いているが、『荒野の決闘』に関しては1946年度のアカデミー賞ではどの部門においてもノミネートすらされておらず、確かにその年はウィリアム・ワイラーの『我らの生涯の最良の年』が話題を独占してはいたが、興行収入は450万ドルを超える大ヒットとなったにもかかわらず作品の<評価>としてはまったく無視されてしまった。その意味では作品の出来いかんによらず観客からは支持され愛された映画といえるだろう。

現在では西部開拓史の中でOK牧場の決闘の逸話とワイアット・アープの存在は、相手役のドク・ホリデイの名とともにあまりにも有名だが、実はこの映画の公開まであまり一般に知られてはいなかったという。その意味でも『荒野の決闘』が映画史に与えた影響は計り知れないのである。そもそもは1930年にスチュアート・N・レイクという作家が『フロンティア・マーシャル』という実録ものでアープを取り上げたのがきっかけで、すでにジョージ・オブライエン、ランドルフ・スコットの主演で2度映画化されていたが、このフォードによる3度目のリメイクによってOK牧場の決闘は一気に万人の知るストーリーとなったのであった。以後、ジョン・スタージェスが『OK牧場の決闘』(1957)、『墓石と決闘』(1967)と2度にわたり映画化し、テレビドラマのシリーズも製作された。最近になってもカート・ラッセルや、ケヴィン・コスナーの主演で映画化されていわば西部劇の定番化していく。
実際、生前のアープ(1929年に81歳で死去)とジョン・フォードはサイレント時代に面識があり、撮影助手をしていたころ西部劇の撮影に見学に来たときに親しく話したという。そのとき聞いた実話によって『荒野の決闘』を作ったと、フォードはピーター・ボグダノビッチのインタビュー(『インタビュー ジョン・フォード全生涯全作品』九芸出版)に答えているが、フォードは史実を無視してドク・ホリデイを殺してしまったりしたが、むしろ決闘のディテールにその体験談を活かし息を吹き込んだ(実際の物語はスタージェス版に近い)。

そもそも『荒野の決闘』はフォックスと契約していたフォードが独立プロを作る前の最後の作品である。フォックスの社長ダリル・F・ザナックは最後の作品を確実に成功させたいという意向から何本かの脚本からこのリメイク企画を選んだのだが、既に自分の新しいプロダクションで製作する『逃亡者』の準備に入っていたこともあって当初フォードは乗り気ではなかったという。
とはいえ潤沢な制作費と『若き日のリンカーン』『怒りの葡萄』で気心が知れていたヘンリー・フォンダが戦争から戻り、エキストラにいたるまでの“一家”が集まってきたこともあってフォードも機嫌を直し製作は開始された。当時の撮影の開始に当たってのエピソードが前出の『西部劇通信』で田中英一氏によって紹介されている。
「スタジオに連中(一家)が集まってきた。何年ぶりかの再会であったが照れ屋のフォードはろくろくあいさつもせず、昨日も会ったようにジロッと見渡したが、みるみる機嫌が悪くなってきた。
 “俺が久しぶりに西部劇をやらかそうとしているのに…サムはどうした?フランクもいない、ジャックは相変わらず酔っ払って寝ているのか?” 
 配役係は答えた
 “サムはタラワで戦死しました。フランクはノルマンディで片足なくしてまだ陸軍病院です。ジャックは痛風で動けません。かみさんが代わりに息子を寄越しました―あの右から3番目のイキのいい奴ジャックにそっくりでしょう。あれが息子です”
 フォードはしばし空を見上げてから独りつぶやいた。
 “そうだった…戦争があったんだっけ…、それではと、残った連中がまだ馬に乗れるか、ジャックのところの若僧がロバくらいはまたげるかテストしてみなくちゃね”
 連中がいっせいに砂塵を捲いて走り去ると、フォードはチェアに腰を沈めてまた繰り返した。
 “そうだったな、長い長い戦争があったんだものなァ”」

『荒野の決闘』がなぜ人の心をうつのか。それは映画の全編を貫く喪失感にある。アープは兄弟を失い、老クラントンは息子を失う。ドク・ホリディは自分を慕う酒場娘を救えず医師の誇りを打ち砕かれ自らも病によって人生を失い、クレメンタインは恋人を失う。しかしながら生き残ったものたちは傷つきながらも明日に向かって生きるしかない。そこに敗北の中の栄光を見ることができる。自ら記録映画撮影のためカメラとともに戦地に赴いたフォードはそれを描いて見せたのだとボグダノビッチもインタビューで規定して見せた。上記のエピソードは真偽のほどはともかく、そんな敗者の栄光に思いを寄せるフォードの心情をあらわしたものとして心にしみる。
戦争で多くのものを失ったのは何もアメリカ人だけではない。戦った側の焼け跡で明日への希望を失った当時の日本人たちが、この映画に敗北の中にさえある栄光を感じ取り自らを重ねていたであろう事も想像に難くない。

ただ作品が出来るまでにはすんなりとは行かず幾多の紆余曲折があったようだ。フォードは老クラントン役のウォルター・ブレナンとはウマが合わず激しい口論をして“もう二度と仕事をしない”と宣言され(事実そうなった)、また当初望んでいた戦争の英雄でもあるタイロン・パワーに代わってドク・ホリデイ役に起用されたビクター・マチュアに対してつらくあたり、“メキシコ野郎”“レバーみたいな唇しやがって”などと執拗にののしった(実際はマチュアも戦争に行っていたのだが)。マチュアはそのせいで神経症にまでなりかけたが、かえってそれが不安定な役柄にプラスに作用し、また彼自身もより役に打ち込んだ。そのため結果的にはその後においても大根役者と酷評された彼の生涯の中で唯一無二の代表作となった。そして仕上がった初号試写では脚本の説明部分を大胆にカットし、登場人物の性格描写に力点が置かれていた演出にザナックは満足せず、自らフォードの撮った尺を30分以上もカットし、取り直しも入れて(ラストの頬へのキスシーンは有名)なんとか完成にまで持っていった。公開後世界的に大ヒットしたのは、興行をにらんだザナックの再編集の功であったとも言えるが、だからといってフォードが描ききった詩情溢れるフロンティアの世界の価値が損なわれたものではないことは言うまでもない。
ヘンリー・フォンダは好きな映画を問われると自己の名声を高めた『怒りの葡萄』や『十二人の怒れる男』とともに『荒野の決闘』もあげたが、人からアープ役を褒められると控えめに“あれはフォードの手柄だ”と付け加えたという。

そのフォンダも後に『ミスタア・ロバーツ』(1955)の演出を巡り殴り合いとなるほど対立した後、<一家>と決別することになる。『荒野の決闘』がそうであったようにフォンダは名優といわれながらも晩年の『黄昏』(1981)までアカデミー賞とはずっと無縁だった。彼自身もワイアット・アープの敗北の中の栄光を生き続けたのだろう。

●荒野の決闘
(1946年20世紀フォックス作品)
監督/ジョン・フォード
製作/サミュエル・G・エンジェル
原案/サム・ヘルマン、スチュアート・N・レイク
脚本/サミュエル・G・エンジェル、ウィンストン・ミラー
撮影/ジョー・マクドナルド
音楽/アルフレッド・ニューマン
出演/ヘンリー・フォンダ(ワイアット・アープ)
   リンダ・ダーネル(チワワ)  
   ヴィクター・マチュア(ドク・ホリデイ)
   ウォルター・ブレナン(老クラントン)
   ティム・ホルト(ヴァージル・アープ)
   ウォード・ボンド(モーガン・アープ)
   キャシー・ダウンズ(クレメンタイン・カーター)
   アラン・モーブレイ(グランヴィル・ソーンダイク)
   ジョン・アイアランド(ビリー・クラントン)
   グラント・ウィザーズ(アイク・クラントン)
   ロイ・ロバーツ(町長)
   ジェーン・ダーウェル(ケイト・ネルソン)
   フランシス・フォード(老兵)

1947年度キネマ旬報ベストテン第2位
   

2008年10月13日月曜日

『馬路天使』 周璇・歌う街角の天使


前回に続いて上海ものだが、今回は外国人の目から見た上海ではなく中国人自身が描いた上海である。この作品が製作された1937年は7月に盧溝橋事件があり、8月には上海事変が勃発するといった緊張した状況下だったが、それまでの30年代の上海映画界はアメリカ映画の影響を受けつつ娯楽の主流として勃興しつつあり、聯華、明星といった映画会社が活況を呈し、次々と新しい映画を製作していた時代でもある。戦火の広がった翌1938年から映画界も製作が困難に成っていくことから、最後の爛熟期の1本といえる。
この『馬路天使』も大手の明星の製作で、当時すでに少女歌手として人気を博していた周璇(チョウシュアン)をヒロインに起用し、現在も中国映画の歴史に残る100本(亜州周刊誌選出)としてあげられる当時の中国映画の代表作である。周璇は李香蘭や渡辺はま子が歌いヒットした「何日君再来」のオリジナルの歌手でもありテレサ・テンが再びこの曲に命を吹き込んだことでも知られているが、『馬路天使』で挿入歌として彼女が歌った「天涯歌女」「四季歌」もいまなお中国で広く歌い継がれている。中国ではいわば美空ひばりのような存在といえるのかもしれない。

映画のオープニングは魔窟といわれたキャバレー「大世界」の怪しいネオンサイン、外灘(バンド)をはじめとした当時の上海の姿が映し出され、近代的なブロードウェイマンションのビルをカメラが上から下になめた後、断層的に地下にもぐっていき繁栄とはかけ離れた貧窮する庶民の暮らす上海の街角へと切り替えていく。未見なので知らなかったが評論家の佐藤忠男の『キネマと砲声』(岩波現代文庫)によると1927年のハリウッド映画『第七天国』(フランク・ボーゼージ監督)からインスパイアされたものらしいが、当時の上海の里弄といわれる庶民の集合住宅の様子が伺えて興味深い。なにせ地元の人たちが作った映画である。当時の魔都に憧れる後世の日本人や西洋人たちが頭の中でイメージしたロマンチシズムの上海ではなく、生活の場であるリアリズムの上海の姿がそこにはある。

主人公の小紅(周璇)は姉の小雲とともに戦火の東北部から上海に流れ着いてきて、酒場で流しの二胡ひきに連れられ歌うことで生きながらえている。芸のない姉は街角に立つ野鶏(娼婦)に身を落としていた。小紅の部屋の向かいに住む小陳(趙丹)はしがない楽隊のラッパ吹きだが明るい青年で、心を寄せる小紅と窓越しでおしゃべりしたりするのがなによりの楽しみである。仲間の新聞売りの老王(魏鶴齢)ら5人組で貧しくも日々を明るく生きていた。理髪店などで働くちょっと頭の足りない仲間たちもみな人がよく、ごみためのような底辺社会でも助け合いたくましく生きている庶民の姿をチャップリンの無声映画のごとくコミカルに描いている。
しかし可愛い小紅に目を留めたやくざが酒場のやり手婆にわたりをつけ売春婦として売り飛ばそうと画策する。ここから話はにわかにシリアスになっていき、前半のコメディっぽいトーンから映画は結局やりきれない悲劇的な結末へと向かって行くことになる…。

『馬路天使』とは街角の天使という意味だが、主人公の天使のような少女・周璇という意味だけではなく、姉・小雲のような街娼そのものを指す意味もある。映画のクライマックスで妹をかばい自らの命を投げ出してしまう小雲のとった行動こそが真の天使なのではないだろうかと観るものに問いかけているようで、なかなか製作側の単なる娯楽作品だけにはしたくないといった強い思いを感じさせる。恋人の姉の職業を蔑む小陳に対して“一生懸命生きている仲間じゃないか”と仲間の老王に諭され目が覚めるエピソードなどは社会矛盾に対する原初的なプロパガンダとも言えよう。
監督・脚本の袁牧之はじめこの映画に携わった人の多くが、翌年明星公司の解散とともに抗日地区へと逃れていくのも当時の映画青年たちの当然の帰結だったのだろうし『馬路天使』で描かれていた社会派的な側面は、貧しい大国・中国を貪る外国勢力に対する中国のインテリゲンチャの抵抗の現れであるのかもしれない。

ヒロインの周璇は当時17歳。人気の絶頂にいた李香蘭こと山口淑子ですら“憧れのスターだった”と自伝で記している。彼女は身体が弱く『馬路天使』のスタッフのように抗日地区への転進を果たすことはできずその後も上海にとどまっていたが、夫となった音楽プロデューサー厳華との結婚生活に失敗し精神を病んでしまった。戦後カムバックするも何度かのスキャンダルを起こしその後二度の結婚生活に失敗し、1957年失意のうちに栄光と薄倖の人生を終えた。はちきれんばかりの若さに満ちた映画の中の彼女の姿を見ていると、実生活におけるその後の苦難の道のりがオーバーラップしてきて本当に切なくなってしまう。彼女の人生に関しては作家の故・中薗英助氏の著書『何日君再来物語』(河出書房新社)に詳しい。

周璇の二人の遺児はその後、中国を代表する大俳優となったこの映画で共演した小陳こと趙丹の手によって密かに引き取られ育てられたという。『馬路天使』は多くの映画人の運命を変えていったが、あらゆる意味で文字通り天使のような人間像を創出し、いまに輝く名作として光を放っているのである。

●馬路天使(1937年中国明星影片公司作品)
監督・脚本/袁牧之
撮影/呉印咸
音楽/賀緑汀
作詞/田漢
出演/周璇(小紅)
   趙丹(小陳)
   魏鶴齢(老王)
   趙慧深(小雲)
   王吉亭(二胡ひき)
   銭千里(理髪師)